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旅を楽しむ歴史の豆知識

旅を楽しむ歴史の豆知識

旅を楽しむ歴史の豆知識

歴史をほんのちょっと知っているだけで旅がとても楽しくなります。歴史上の重要な場面に登場する場所だと知っているだけで、その土地が急に身近に感じたりします。
また、歴史上の有名な人物の中には一生を旅で終えていることもよくあります。そうした人物の足跡を偶然、旅先で見つけるのも面白いものです。

ジョン万次郎-竜馬がゆく-

足摺岬

更新日:2004/05/08 

足摺岬にはジョン万次郎の像が建っています。
今では周りはコンクリートで舗装され、脇には立派なトイレも立ちましたが、写真を撮影した1998年にはここで野営が出来たほど、のどかでした。

ジョン万次郎は足摺岬の西岸、中浜(なかのはま)で生まれ育ち、10代で出漁中に時化に遭い無人島に漂着、アメリカの捕鯨船に救助されるまでの半年間、野鳥や魚介類で飢えをしのいでいました。

アメリカに渡った万次郎は初等教育を受けた後、捕鯨船に乗り込み船員として働きましたが、ペリー来航の直前帰国し、当初は鎖国を破ったと言うことで罪人として扱われましたが、ペリー来航後、日本でただ一人英語が話せると人物と言うことで、旗本に取り立てられました。

聡明な人でしたが、身分制度の固まった封建時代ににわかに旗本に取り立てられたため、周りからのやっかみや足の引っ張り似合い、その能力の数分の一も出せずに世を終えました。

ジョン万次郎-竜馬がゆく-

ペリー提督の足跡

浦賀

更新日:2007/03/20 

日米和親条約を結んだペリー提督は、押し込み強盗道前に日本にやってきて条約を結んで帰っていった人物なのですが、なぜか日本では高い人気を維持しています。かく言うわたしもペリー提督と当時の合衆国東洋艦隊は嫌いではありません。

ペリー提督とその艦隊は、浦賀の他にも琉球と函館に立ち寄っています。当時鎖国をしていて、外部から見られることが非常に希だった日本をつぶさに観察し記録にとどめたことは、とても価値ある事でした。

写真は浦賀に発つペリー提督の上陸を記念する石碑です。明治34年(1901)7月4日、アメリカの独立記念日に合わせて建立されたもので、題字は伊藤博文です。この石碑は日露戦争の前に建てられたもので、日露戦争ではアメリカは日本に対して好意的中立を保ってくれ、和平の斡旋もしてくれました。
しかし、日露戦争後、日米の双方が相手国を仮想敵国として軍備(主に海軍)を増強し、やがて両国関係は緊張し、戦争という結果を迎えてしまいます。石碑の建立から日米開戦まで40年しか有りませんでした。

ペリー提督の足跡

中岡慎太郎-竜馬がゆく-

室戸岬に立つ晋太郎像

更新日:2004/05/07 

「竜馬がゆく」の主人公はもちろん坂本竜馬ですが、竜馬を巡り多数の登場人物が現れます。
その中で、前半の準主人公が武知半平太なら、後半の準主人公の一人はこの中岡慎太郎でしょう。

慎太郎は室戸岬の北の北川村の生まれですが、竜馬に対抗して(?)海沿いの室戸岬に立っています。

竜馬像は募金だけで建立し、時の大財閥の岩崎家からの寄付金を断ったり、序幕の日には旧帝国海軍が駆逐艦を派遣して祝砲を打ち上げたりなどのエピソードが豊富ですが、慎太郎像にはそうしたエピソードはありません。

おそらく官費でたてたのだと思いますが、国権的な国家像を描いていた慎太郎にはむしろふさわしいのかもしれません。

中岡慎太郎-竜馬がゆく-

会津若松の町とゆかりの地

鶴ヶ城天守閣

更新日:2005/01/11 

会津若松のまちと鶴ヶ城は近江の人(滋賀県)の蒲生氏郷がつくりました。氏郷は織田信長の娘婿で文武両道の達人だったと言われています。

会津若松の町とゆかりの地

古道を行く

中道往還

更新日:2004/02/05 

昭和40年の後半以降、日本の道路は急激な変化を遂げ、明治から江戸時代以前に使われていた道もほとんどが消滅してしまいました。わずかに東海道、中山道などの名称が残っているだけです。
そうした中でも県道や林道の一部はかつては古道として人々が往来していた道があります。
ここでは今も残る日本各地の古道を取り上げて行きます。

写真は甲府盆地と中道、本栖湖と通り駿河へ至る中道往還です。
中道往還は現代では県道710となっていますが、残念なことに通年ゲートにより閉鎖されていることがおおいです。
峠には武田信玄や織田信長がこの道を通った由来などが書かれている看板が立っています。

古道を行く

吉田松陰、九州遊歴の旅

萩

更新日:2005/01/12 

吉田松陰が初めて他国に旅したのが九州遊歴でした。
旅の目的地は平戸で、松陰の家学の山鹿兵学の探究をするためでした。この旅で宮部鼎蔵という得難い友人と出会いました。

吉田松陰、九州遊歴の旅

吉田松陰、東国遊歴の旅

水戸

更新日:2006/11/16 

吉田松陰は肥後人の宮部鼎蔵らと国防についての認識を深めようと、東北へと旅立ちます。
最初に立ち寄ったのが水戸です。おそらく筑波山を見ながら水戸へと向かったことでしょう。水戸藩は吉田松陰を始め、幕末の志士たちの心のふるさとでした。

吉田松陰、東国遊歴の旅

坂本竜馬 -竜馬がゆく-

竜馬の旅の足跡

更新日:2004/05/09 

歴史上の英雄で、最も人気が高い人物の一人は坂本竜馬でしょう。
司馬遼太郎さんの著作、「竜馬がゆく」が出版されて以降、竜馬の人気は不動になりました。
現在でも映画、ドラマ、コミックの主人公としてしばしば取り上げられています。

竜馬の一生は旅だった、と司馬さんは書いていますが、これはツーリングの題材にもってこいの人物です。人気の他に旅好きと言うこで、最初に坂本竜馬を取り上げました。

竜馬の旅の略歴は下記の通りです。
土佐高知に生まれ、江戸(東京)で剣術の修行をし、やがて故国に帰国、数年して脱藩、下関や大阪を経てまた江戸に舞い戻ってきました。

その後、神戸に海軍塾を造るものの、幕府により閉鎖させられてしまいます。しかしすぐに長崎に事務所を置いて貿易事業に乗り出します。この組織が後の海援隊に発展して行きます。

最期の地は京都。友人の中岡慎太郎と共に、暗殺者の手に掛かって果てました。

坂本竜馬 -竜馬がゆく-

大村益次郎-花神-

宇和島城下

更新日:2007/03/20 

宇和島城下に在住の頃の名乗りは村田蔵六、のち大村益次郎は写真に見える宇和島港の入り口を防備する砲台の建築を行ったほか、日本で最初とも言える蒸気船を建造しました。

宇和島藩は村田蔵六の前は高野長英など、当時の言葉で言う蘭学者をとても大事にした藩としても有名です。

幕末維新の時代、宇和島藩は天下の四賢侯の一人、伊達宗城に率いられ四国でも最も交通の便の悪い宇和島にありながら日本の最先端を行く知識と技術を持っていました。
その一端を大村益次郎が担っていました。

大村益次郎-花神-

山内一豊と千代-功名が辻-

高知城

更新日:2005/06/02 

山内一豊(やまのうちかずとよ)は今の岐阜県、当時の美濃の国の生まれです。

豊臣時代に掛川城を有していましたが、関ヶ原の合戦の功により土佐一国27万石を有するようになりました。

高知城は一豊が着工し数代後に完成しました。
一豊の代は高知城下は水はけが悪く、城下町の整備はずいぶんと苦労したと伝えられています。

山内一豊と千代-功名が辻-

岩崎弥太郎-竜馬がゆく-

岩崎弥太郎生家

更新日:2004/05/08 

岩崎弥太郎は竜馬がゆくの中で、竜馬と対照的な人物として、多少滑稽味のある人物として描かれています。

岩崎家は身分上は百姓で、安芸市北の井ノ口に住んでいました。生家もここに保存されています。

岩崎家は元々は郷士でしたが、弥太郎の祖先が郷士株を売って百姓身分となり、以後は地下浪人と呼ばれていました。
このため、建物の作りも農家のそれで、規模から言えば中農クラスといえそうです。

岩崎弥太郎-竜馬がゆく-

平安朝以前の歴史

太宰府天満宮

更新日:2003/12/18 

日本の歴史は古く、国としていつ頃成立したかも定かではないほどです。隣国にさらに歴史のある中国があるので目立ちませんが、千数百年以上の歴史を持つ国というのは世界的にも珍しいです。

現在の日本人の考え方や文化などは平安末期から鎌倉時代にかけて出現し、室町時代を経て江戸時代に一度完成したと言われています。鎌倉時代の言葉の「一所懸命」が「一生懸命」として今でも使われていることや、室町時代の床の間や玄関、お茶などが今では何処の家庭でも見られることからもこの辺はおわかりいただけると思います。

では、鎌倉時代のさらに前、奈良時代や平安時代、或いは神話の時代はどうでしょう。作家の司馬遼太郎さんはその著作の中で「外国みたい」と述べていますが、源氏物語などを読むと、倫理観や風俗など本当に外国を見る思いがします。
それでも現在のわたしたちには大きな影響を与えていることを、全国各地で体験することが出来ます。
ここではそうした平安朝以前のツーリングスポットを取り上げながら話を進めたいと思います。

最初に取り上げるのは太宰府天満宮です。
ご存じのようにまつられているのは菅原道真です。
道真は中央政府(朝廷)での権力闘争に敗れ、この地に流され悲嘆の内にその生涯を閉じました。

平安朝以前の歴史

武市半平太と土佐勤王党-竜馬がゆく-

武市半平太生家

更新日:2004/05/08 

司馬遼太郎さんの代表作、竜馬がゆくのなかで前半に登場する主要人物が瑞山武市半平太です。戯曲「月形半平太」のモデルとなったことでも知られています。

武市半平太はぺリー来航前から土佐郷士たちの間で尊敬を集め、自然と頭目に押し立てられていました。
幕末の激動期の初期、龍馬も参加した「土佐勤王党」を組織して、一時期は薩長土と3藩並び称せられていました。

武市半平太と土佐勤王党-竜馬がゆく-

河井継之助 -峠-

奥只見のガトリング砲

更新日:2007/02/12 

河井継之助は幕末で最も激しい戦いと言われている北越戦争を主導した人物です。河井継之助の記念館が、新潟から峠を越えて会津盆地に入る途中に通る只見町高塩にあります。
越後から峠を越えて会津に入るとすぐに蒲生山という奇岩で覆われた山が左手に現れます。標高は800mほどの低い山なのですが川幅の広い只見川に面しているためとても高く感じます。記念館はこの蒲生山の麓にあります。

この記念館には復元されたガトリング砲が展示されています。このガトリング砲はNHK大河ドラマ「花神」で使用されたものです。わたしは機関銃の原型と聞いていたので、ここで複製を見るまではもっと小さな武器を想像していたのですが、当時はガットリング砲と大砲と同じ扱いをしていた理由が、その大きさと台座の頑丈さから分かりました。越後の長岡藩総督の河井継之助の記念館が会津只見にあるのは、この辺りが継之介の臨終の地だったからでしょう。会津の方の人の細やかさがこれで伺えます。

このガトリング砲は南北戦争当時のアメリカで発明されました。開発者は医師のガトリングさんです。しかし当時は電動モーターなどはなく、回転する砲身は手で回さなければなりませんでした。精密機械のように一定の早さで回さなければすぐに装弾不良等が発生して、弾丸の発砲が出来なくなりました。

銃弾や砲弾が飛び交う戦場でそんな冷静な人間が要るはずがありません。アメリカの南北戦争や日本の戊辰戦争で一部実戦に参加しただけで、その後長くガトリング医師の研究成果は忘れられていました。

河井継之助 -峠-

浜口雄幸-男子の本懐-

浜口雄幸生家

更新日:2004/05/08 

昭和初期、日本が軍部による独裁から第二次大戦へ突き進んでいく原因がこの時代にあります。

浜口雄幸はこのときに首相を務め、ロンドン海軍軍縮条約や金本位制への復帰とうを実行しました。
しかし、その最後は暗殺されるという悲劇で幕を閉じます。

浜口雄幸生家は土佐市郊外、五台山の麓にあります。
わずかに車1台が止められるだけの小さな駐車場が象徴するように、訪れる人は希です。

浜口雄幸-男子の本懐-

秋月悌次郎-落花は枝に還らずとも-

会津若松

更新日:2006/11/16 

秋月悌次郎は文政7年(1824)に会津藩士、丸山四郎衛門の次男として、会津若松に生まれました。その後、悌次郎の才が認められて、新たに「秋月」の家を興すことが許されました。

秋月悌次郎-落花は枝に還らずとも-

西南戦争、西郷隆盛の退路

北川河畔

更新日:2005/01/01 

明治10年の西南戦争の末期、西郷隆盛と薩摩軍は宮崎県北部の北川村の北側河畔に追い込まれていました。ここから九州の険しい山岳を縦断して鹿児島市の城山まで踏破しました。

「翔ぶが如く」に踏破したルートが記載されていて、たまたまわたしがそのルートの山岳路に当たる道路をほぼ全て撮影していましたので、ここに紹介します。
最初の写真は北側に架かる沈下橋です。この沈下橋は西郷宿椹後の5kmほど北にありましたが、撮影当時、この沈下橋と平行した橋梁の建設を行っていたので、もうなくなっているかもしれません。

西南戦争、西郷隆盛の退路

西郷隆盛 -翔ぶが如く-

南洲遺屋と江戸時代の奄美大島

更新日:2007/03/20 

上野の山の銅像でおなじみの西郷さんは戸籍上の本名は西郷隆盛でしたが、その生涯で自分からは1度も隆盛の名は用いずに、通称の吉之助を使っていたそうです。

西郷隆盛は2度、遠島になっていますが、最初の遠島先が奄美大島の龍郷町の海岸沿いでした。身長180cm以上、体重も100kgを優にこえる巨漢と伝えられていますが、奄美大島に残る蟄居跡は小さな家屋で、それほどの巨漢が住んでいたとは思えないほどです。

掲載した画像は奄美大島の南洲遺屋です。南洲は西郷隆盛の号で、勝海舟(義邦)などと同様です。

西郷隆盛は奄美大島に配流中、薩摩藩が奄美大島の住民を奴隷同様に扱うことに非常な憤りを感じました。西郷は正義感が強く、不正を憎むことが甚だしい性格でした。このときに感じた義憤が体の中に残り、後の討幕運動のエネルギーに多少なったのではないかと思います。

奄美大島の人々は換金作物のサトウキビや甘藷の植え付けを強制され、とれた作物は全て信じられないほどの安値で薩摩藩に買い取られて行きました。サトウキビを住民が食べたりすると罰せられるので、自分たちが作っているサトウキビの味を知らなかったと言われています。

西郷隆盛 -翔ぶが如く-

間宮林蔵と北海道

宗谷岬の間宮林蔵の立像

更新日:2007/03/26 

北海道を訪れる旅人が1度は目指すのが宗谷岬でしょう。わたしも初めての北海道ツーリングは太平洋岸からオホーツク海岸に沿って、宗谷岬を目指して走っていました。

宗谷岬には日本最北の地の記念碑の他に、写真の間宮林蔵の銅像も建っています。間宮林蔵は間宮海峡の発見者ということからも分かるとおり、北海道(当時は蝦夷地)や千島列島などの北方探検家として歴史上に大きな足跡を残しています。

間宮林蔵と北海道

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